昨日、とりあげたもののヴァージョンあつめ作業で、すこし前にちょっと気になってた方である、スウェーデンの歌姫シュー・マルムクヴィストまたはシーヴ・マルムクヴィスト(Siw Malmkvist)のことさらにすこし調べてみました。

昨日みつけたのは、こちら、1955年に大ヒットとなった曲『Tweedlee Dee』のカヴァー。

Siw Malmkvist:Tweedle Dee

なぜ、これ以前に気になっていたかといいますと、森山加代子さんが、8枚目(たぶん)のシングルとして、この方の曲をカヴァーしていたということを知ったからなのです。

『ウェディング・ケーキ』 (1961年9月)(Siv Malquist - Siw Malmkvist『Wedding Cake』のカバー。作詞:渡舟人/作曲:ロス/編曲:ダニー飯田、B面:「あなたの自由に」)ジャケットのお手ての感じ、加代ちゃん的ですね。オリジナルのヒットとほぼ同時のカヴァーです。

(森山加代子さんのヴァージョン聴いてみたいのですが、こちらはネットでは音源みつからずです)オリジナルである、Siw Malmkvistのものはこちら。この曲は、Siw Malmkvistさんのヴァージョンだけでも、スウェーデン語、ドイツ語、英語のヴァージョンがあるのですね。

Siw Malmkvist:Du Förstår Ingenting
タイトル翻訳してみると、原題は『Wedding Cake』ではないのですね『You Do Nothing』。スウェーデン語、歌詞がわからないので、唯一わかる英語ヴァージョンと同じ内容はわからないのですけど。

Siw Malmkvist:Wedding Cake
かなしいけど、未来を夢見てというような、から元気的明るさがとてもせつなくかわいい曲。

で、肝心のSiw Malmkvistのいろいろがまだですが、ABBA登場前までのスウェーデン音楽界を代表する歌手であり、スウェーデンのみならず、スカンジナビアでの隣国でもとても知られる女性シンガー。レコーディング曲数は600曲ちかく。アメリカン・ポップスのカヴァーとかよいものが多いです。

Siw Malmkvist:Bossa Nova Baby
エルヴィス・プレスリーのヒット、『Bossa Nova Baby』のカヴァー。こちらもよいですね

その人気はドイツでも高く。ドイツ語で歌ってるヴァージョンも多いのですね。ドイツでも20曲ちかくのチャートインがあるようですが、ナンバーワン・ヒットは、1964年の『Liebeskummer lohnt sich nicht』。ドイツ語ヴァージョンとスウェーデン語ヴァージョンで

Siw Malmkvist:Liebeskummer lohnt sich nicht

Siw Malmkvist:Kärleksgrubbel (Liebeskummer lohnt sich nicht in Swedish)

当時、日本でも数は多くはないですけど、シングルとか発売されてたみたいですね。こちらは、アメリカでもヒットとなり、ビルボードでチャートインもしたという『Sole Sole Sole』(邦題は「太陽のキッス」)。デュエットのお相手は、イタリアの男性シンガー、Umberto Marcato。なんとも国際的ですね。当時の音楽業界全体の、そんな雰囲気をまさに象徴したような。最後の「アモレミーヨ~♪」の感じ、いいです

太陽にキッス Sole Sole Sole

Siw Malmkvist、これからもいろいろ聴いてみたいなぁと思っていて。ベストありますけど、このあたりのヒット作品コンピ聴いてみるのも、ほかのシンガーとの出会いもありそうで、おもしろいかもしれませんね:)

Windows, Jimmy Makulis, Ulli Martin, Siw Malmkvist, Ulla Norden, Nina & Mike..

Wencke Myhre, Gus Backus, Siw Malmkvist, Bata Illic, Dorthe, Billy Mo, Rocco Granata, Ted Herold..

(投稿:日本 2012年4月25日、ハワイ 4月24日)

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一昨日から多少関連のひきつづきで、『僕らのヒットパレード(片岡義男、小西康陽共著)にあった、片岡義男さんがテナー・サックスに関心をもったという曲『トゥイードリー・ディー Tweedlee Dee』。もともともある程度なじみがある曲ではあったのですけど、なんだか、つくづく、楽しく、しゃれててよい曲だなと(おしゃれという意味だけでなく、ほんとうに、本来の意味でしゃれてるなぁ。。と)。いくつかのヴァージョンなどを聴いてみたりしてみたり、曲そのものに関してすこし調べてみたりしましたので、こちらにメモφ(.. )

先日、すこしだけふれたときにも記しましたけど、この曲、ウィンフィールド・スコット作で、ラ・ヴァーン・ベイカー(LaVern Baker)が1954年にレコーディングをし、1955年にヒットとなり、ほぼそのすぐ後くらいに、ジョージア・ギブス(Georgia Gibbs)も歌い大ヒットとなった作品ですが、背景にはすこし、「いろいろ」もあったのですね。

オリジナルであるラ・ヴァーン・ベイカーのものは、ビルボードのR&Bチャートで最高位4位、ポップスチャートでは14位だったそうで、けっこうなヒットなのですけど、カヴァーであるジョージア・ギブスは、この曲でゴールドレコードを。白人シンガーとしての幅広い層へのアピールやレコード会社の規模なども要因ではありますが、ベイカーは、アレンジやちょっとブラック節をとりいれたようなボーカルスタイルのつぼどころもほぼ同じだったということで、アンハッピーだったようですね。

ただ、とても楽しい名曲であることはまちがえなく。ノベルティソング的な韻のきいた歌詞のしゃれ感(隠喩面ではちょっとおいろけもあるような)。Tweedledum and Tweedledeeはア不思議な国のアリスのキャラクターでもありますね・曲調。そして、このラテン風味もとりいれたアレンジは、まさに名アレンジであり、その後のカヴァーものにもその要素がのこされていますね。

とてもたくさんの方のカヴァーもあり、そのどれもがたのしく。動画にあがっているものだけでもたくさん。再生リストもつくってみましたけど、その中からもいくつか。

まずは、オリジナルのラ・ヴァーン・ベイカーとその後のジョージア・ギブス。

Lavern Baker:Tweedlee Dee

Georgia Gibbs:Tweedlee Dee

カヴァー、女性シンガーでは、テレサ・ブリュワー(Teresa Brewer)やワンダ・ジャクソン(Wanda Jackson)、コニー・フランシス(Connie Francis)なども。あとは、レコーディングのヴァージョンがあるのかどうかわからにのですけど、ドロシー・コリンズのテレビ出演での、かわいらしい感じで。これは、「不思議な国のアリス」からの雰囲気で。(ちょっと貼りつけが多くなっちゃうので、こちらは再生リストで)

エルヴィスの"Louisiana Hayride"ものもありますね。あと、ピー・ウィー・キング(Pee Wee King)なんかも。

Elvis Presley:Tweedlee Dee(Louisiana Hayride Archives)

グループものなどもたくさんなのですが、あとはちょっと印象にのこった後年ものを。

Jimmy Osmond:Tweedle Dee
はい、この感じをこどもシンガーが歌うのはまたエンターテイメントですね、というジミー・オズモンド

Freddie Bell & Roberta Linn:Tweedlee Dee
この感じ、この歌の世界をよく描いてる気がします。ロベルタ・リンはローレンス・ウェルクのシャンペイン・レイディースでもあった方。

Peter Doyle:Tweedlee Dee
あと、オーストラリアのシンガー、ピーター・ドイルのヴァージョンもとってもよいですね。この時代的にアレンジもいかした感じに。

番外編として、こちら
Cactus Pryorさんって、ラジオなどでも活躍されていたブロードキャスターのようですけど、パロディー・ヴァージョンが。なぜかショパンのプレリュードにのせた朗読w
これも、やはり、この曲、歌詞のよさにもあるということですね。ピアノ演奏はRalph Kies。

Cactus Pryor:Tweedle Dee

そして、ヒットを物語る異国カヴァーもありました。これは、ヒットした年である1955年に。スウェーデンの歌姫であるシュー・マルムクヴィスト(Siw Malmkvist)のヴァージョン。この方はこの方で、日本ものへともつづく、またすこしつめたいことあるのですけど。。(宿題)

Siw Malmkvist:Tweedle Dee

あと、ほかにもいろいろ。再生リストです。

(投稿:日本 2012年4月24日、ハワイ 4月23日)

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片岡義男さんと小西康陽さん共著である『僕らのヒットパレード』、最近すこしづつ読んでます。

この本、今年の2月に発売になったものですが、もとはおふたりによる「芸術新潮」連載のリレーコラム他、対談や音楽エッセイを収めたというもの。
まえがきとあとがきにある、それぞれの一文にあるように、音楽、ことレコードへの思いをつづったエッセイ集となってます。

引用:
「「LPは魔法だ。過去のある時あるところで流れた時間が、音楽にかたちを変えて、LPの盤面の音溝に刻み込んである。その音溝から音楽を電気的に再生させると、過去の時間が現在の時間とひとつになって、現在のなかを経過していく。何度繰り返しても、おなじことが起きる。これを魔法と呼ばないなら、他のいったいなにが魔法なのか。」(片岡義男:「まえがき」)」
「「レコードを愛することと、音楽を愛することは似ているようだがまったく違う。レコードが素晴らしいのは、そこに封じ込められた音楽や会話、あるいは音のすべては、過去に奏でられ、発せられたものだ、ということだ。」(小西康陽:「あとがき」」

この本を知ることとなったきっかけは、ひと月半ほど前によいなぁと思い、知った、アール・ボスティックから。
EARL BOSTIC 「アール・ボスティックを聴きはじめる」

ボスティック、レコードなどの情報はあるものの、日本語による情報がほんとうにすくなくて。英語でも入り込んだような記述はネットでは多くはないのです。ただ、書籍関連などを調べると、R&Bものではとても多く、かなりの影響もうかがえ、しかも、レコードの枚数もかなりに多く。そんな関心からたどりついたのが、この「僕らのヒットパレード」にある「アール・ボスティックをききなおす」というものでした。ただし、このときは、その内容はわからず、小西氏、片岡氏のどちらによる文章なのかも。でも、なんとなく、片岡義男さんなんだろうなぁ。。と。

そこで、まずが図書館で借りてみようと。

興味あるものすべてを購入できないのがちょっとつらいところですが、本に関しては、まずはすこし読んでみてから購入をきめることも多いのですよね。で、まだ、ぜんぶ読んでみてはいないのですが、このエッセイ集、よいですね。どれもみじかく小気味よく、そこにとてもよい空気が流れている文章なので、みじかめのティータイム読書用に手元にあってもよいかなぁと思ってます。

ということで、「アール・ボスティックをききなおす」です。

そこには、片岡義男さんとボスティックの出会い、テナー・サックスのこと、などの思い出がありました。

片岡義男さんとテナー・サックスの出会いは、『トゥイードル・ディー(トゥイードリー・ディー)』。この曲は、1954年、1955年当時もふたりの歌手、ラ・ヴァーン・ベイカーとジョージア・ギブスによって歌われ(そのすこしあとにも、ほぼ同時であったり、また数年後であったり、たくさんのシンガーにカヴァーされますね。オリジナルはやはりベイカーみたいですね)、歌はギブスのものが好きだったけど、ベイカーによるヴァージョンの間奏にある数小節のサックスソロに目覚めたと。(注:ここは、ボスティックではないです)

これをきっかけに、テナー・サックスの音に興味をもちだし、何かといえば、いろいろな曲の中でのテナーマンの演奏に耳をかたむけだしたのだと。そんな中で、ある日、強力にとらわれたのが、たまたま聴いたアール・ボスティックの「ブルー・ダニューブ」の演奏だったそうで(さがしてみたのですけど、これ、レコーディングもにはないかもですね。「ダニューブ・ウェイブス(ドナウのさざなみ)」の方はありましたけど。ボスティック、クラシックやいろんなポピュラー音楽のアレンジものをやってるので、きっと「ブルー・ダニューブ(美しく青きドナウ)」も演奏されてたのでしょうね)。

「ブルー・ダニューブ」ではないですけど、「ダニューブ・ウェイブス」をここに

Earl Bostic: Danube Waves

まえに、わたしなり「アール・ボスティックを聴きはじめる」でも書いてみましたけど、この方の音は、ほんとうにいいですね。艶があって、官能的だあり、力強く、とても個性がありながらも、奇をてらいすぎていない。日本で言うならば歌謡的な要素もあるような。そして、この「黒い音」はR&Bへと、なのでしょう。

片岡義男さんは、26歳のときに、みずから奏るために、テナー・サックスを手にとったそうで、その指導にあたったのは、SF作家であり、もと広瀬正とスカイトーンズというバンドももっていた、広瀬正さん(この方は、この方で1エントリーくらい必要なので、きょうのところはリンクです)。
Wikipedia:広瀬正
神保町系オタオタ日記:広瀬正とスカイ・トーンズ

その広瀬正さんが、テナー・サックスについて、いろいろ教えたあとに最後に参考までといって基地のPXでもとめた何枚かアメリカのシングル盤を片岡義男さんにさしあげたそうなのですが、その中にもアール・ボスティックがあったという思い出も。そのときにあったのが『メランコリー・セレナーデ』と『ホワット・ノー・パールズ』だそうです。

Earl Bostic: What! No Pearls?
こちらは、あのグレン・ミラーの『A String of Pearls』から、ひねったようなボスティック作曲の作品。

なんだか、まとまりありませんが、アール・ボスティックからの出会い、さらにその魅力感じる「アール・ボスティックをききなおす」であり、すてきな音楽の思い出、レコードの魔法がたくさんの「僕らのヒットパレード」です。

(投稿:日本 2012年4月22日、ハワイ 4月21日)

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昭和のコミックソング、ナンセンスソングのコンピ『ALWAYS外伝~昭和爆笑伝説~』からをひきつづき。このアルバム収録の曲の数々、おなじみというもの多いながらもよきセレクト、いろいろと気づきも多く。

昭和の…ということで、もちろんクレイジーキャッツは、はずせなくで、なかでも萩原哲晶さん関連なども、なのですけれど、それとはまた別に、ちょっと気になる一曲が。谷啓さん、1965年の『ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘』。

谷啓:ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘(1965年)
作詞・作曲:ヘンリー・ドレナン、編曲:森岡賢一郎



この曲、ちょっとこっけいな女の子のことを歌いながらも
なんだかとってもやさしくて、にこにこと。くり返し聴いてしまうような、すてきな曲ですね。

♪…ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘~
好きだよ…♪

ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘(歌詞)

そこで、歌詞は日本語だけど…と思いつつ、気になったのが、作詞・作曲のヘンリー・ドレナン氏。

ちょっとさがしてみたところ、ご自身の歌っているヴァージョンもあるのですね。

へンリー・ドレナン:ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘
(曲がはじまるまでしょうしょう時間がかかるようです。4トラカートリッジという)
なんか、すごくよいのですけど。。このヴァージョンも。声もすてきですよね。演奏の雰囲気も。とても軽やかで。



へンリー・ドレナンさん、谷啓さんのシングルでは、B面の『小指ちゃん』も作詞、作曲を手がけてらっしゃるのですね。
この『小指ちゃん』は、加川良さんもカヴァーしているのだとか。
LOVE SHOP RECORD:【USED EP-45RPM】 谷啓 「ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘 b/w 小指ちゃん」

気になるへンリー・ドレナンさん。イギリス人の父と日本人の母を持ち、7歳から東京で暮らし、シンガーソングライターとしてデビューしたのは、この谷啓さんが歌った『ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘』で、なのですね。その後、1966年には『かわいそうな娘』がミリオンセラーに。
Wikipedia:へンリー・ドレナン

ミリオンセラーになったという『かわいそうな娘』、聴いたことがなくて。どうしても聴いてみたいのですけど。。。あまり情報もなく。

そんな中、この曲、歌詞ふくめて書いてらっしゃるブログみつけ、拝見。
Picture on the Wall:『蝉の声』 [noisy life]:「かわいそうな娘」
この曲も、なんともややとぼけた感もありながら、詩情ゆたかな作品のようですね(ますます聴いてみたくなってしまい。。)

ヘンリーさん、こんなすてきな作品のこされているのですが、その後は、方向転換され、マーケティングビジネスなどをされていたようですね。そして、2001年からは、日本の英語教育の活動を開始、以後「ヘンリーおじさん」の名前で知られるようになっていると。いろいろな英語教材などだされているようですね。

(投稿:日本 2012年4月10日、ハワイ 4月9日)


と思っていたら、ありました!『かわいそうな娘』。せつなく、やさしく、すてきな曲ですね。。

ヘンリー:かわいそうな娘(1966年)



おまけ:
ヘンリー・ドレナンさん、近年の英語教育ものより。

ヘンリーおじさんのやさしい英語のうた(Raindrops Falling on My Head):
うたはこどもによるもので。作は「ヘンリーおじさん」のようですね



追記(2012年4月11日)

ヘンリー・ドレナンさん、ほかの曲も聴いてみたいなぁと思っていたところ、mittooさんが、アルバム『ヘンリー HENRY』について書いてくださいました。
PIRATE'S CHOICE:ヘンリー / HENRI (1967.日本コロンビア)LP

どの作品も、やっぱり独特のやさしさあふれる、でもちょっと飄々とした感じもあるすてきな世界。よいです、しみじみと。。

追記(2012年4月11日)

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先日、ジャズ的な雰囲気と松鶴家千とせさんについて、すこしのまとめをして考えてみたりしながら、先の投稿でもふれた、コンピ『ALWAYS外伝~昭和爆笑伝説~』さっそく聴いてみたのでした。

こどものころ、ジャズはちょっと「オトナ」でありながら、親しむきっかけとなったのは、お笑い的要素からであったりするなぁと、つくづくで。

ジャズと大人の世界は、昭和のある時期、比較的長いあいだにわたっての雰囲気でもあり、ほんとうにいろんな意味で、しかもじつに幅広く、いろんな方による、なのですよね。大人とはいってもとっつきにくいものではなく。じぶんの中でのテーマのひとつでもあるのかなぁとは、気づいていたのですけれど、あらためて。これから、すこしづつ折をみて、先のコンピアルバムから、そして、別のものも、こちらでもいろんな作品に触れていけたらなぁと。

ということで、本日は、わかりやすくちょっと「イケナイ」世界の大人ものであり、替え歌ジャンルでもあり。時期的にも、比較的近い、1978年のこれ。林家木久蔵(現・林家木久扇)さんの『いやんばか~ん』。

林家木久蔵:いやんばか~ん(1978年(昭和53年))
原詞曲:W. C. Handy。 日本語詞:林家木久蔵、編曲:あわの圭一

歌詞ナビ - いやんばか~ん - 林家木久蔵 - 歌詞
演奏はさらりとした感じで、かっこいいですよね。どなたが参加してたのでしょうか。
それにしても、スキャット部分、意識的なオーバーさながら、完璧ですね。



「いやんばか~ん」、まわりのおとなは「こんなの聴いちゃだめ」といいながらも、おもしろがり、こどもはキャッキャッいうような完全なる昭和の「ちょっとHな」カテゴリーの代表曲のひとつ。
一世を風靡。よくクラスの男子は「いやんばか~ん」と、ふざけてたような思い出も。

原曲の『セントルイス・ブルース(St. Louis Blues)』は、ここから知ったのかも、です(その前にもBGMなどでは耳にはしてたでしょうけれどね)。

『セントルイス・ブルース(Saint Louis Blues)』、数え切れないほどのカヴァーがあるジャズのナンバーであり、最初にポップス的というかポピュラーになったブルース曲のひとつでもありますね。

このヴァージョンは、この曲のその後のカヴァーの雰囲気のもとともなっているひとつですね。

Louis Armstrong & Bessie Smith:The St. Louis Blues (1925年)



この曲が、W.C. Handyによって作られたのは、さらに前の1914年のこと。『St. Louis Blues』のほかにもブルース曲を。ポピュラーになったのは、数年たって、のようですね。

W C Handy and Orchestra:St. Louis Blues(1922年)



Wikipedia:St. Louis Blues (song)によると、この曲から、フォックストロットが生まれるもととなったとも(Fox Trot)

1920's Fox Trot:



林家木久蔵(現・林家木久扇)さんにもどりまして。
いまだに、この曲『いやんばか~ん』のイメージがまずはじめに、というほどなのですけど。
赤塚不二夫やタモリとは長く親交あったりするというのも、なんとなくわかるようなです。
「笑天」でも、木久ちゃんでああいった感じの方ですが、趣味人で、いろんなこと知ってる方ですからね。

もともと、漫画家志望だったのですよね。清水崑さんのお弟子さんだったのですね。
1958年には、『漫画サンデー』に掲載されたそうですが、話がおもしろいからと薦められ、紹介もあり、1960年、3代目桂三木助に入門(3代目桂三木助さん、このあとすぐに他界)。

コミックソングやナンセンスソング:
ALWAYS外伝~昭和爆笑伝説~』、こどものころの懐かしいおなじみ作品や生まれる前のものでも、これは知ってるという、1959年から1986年、昭和の代表的な作品ばかり。でも、「あたりまえ」感を感じさせない、ラインアップ。きちんと、でもたのしく、とてもすばらしい選曲です。
ライナーノーツは鈴木啓之さんが書いてらして。

やはり、このジャンルの愉しみは、聴いてたのしいということが一番の理由ではありますけれど、その時代、時代の社会や風俗が反映されているのが、またよいですね。それらは、流行語であったり、歌われているすべてのこと、ファッションしかり。それだけに、もうすこしデータというか解説というか、そんな感じのものが細かくあるとうれしいかもです。

ただ、それをあらためてまとめるのも楽しい作業ですね。すこしづつ。

(投稿:日本 2012年4月5日、ハワイ 4月4日)

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こどものころから、なにかというと、ふと、頭によぎる、あのことば…先日も…
「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」

ということで、松鶴家千とせさんのこと。

オレが昔、夕焼けだったころ ♪
弟は小やけだった
父さんが胸やけで
母さんが霜やけだった…

松鶴家千とせ:わかんねエだろうナ (夕やけこやけ)
原詞:中村紅雨 / 挿入詞:元木すみお・進しげお / 作曲:草川信 / 編曲:竹村次郎



こどもながら、というか、こどもだからよけに、というのもあったと思うのですけれど。「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」、ジャズ的スキャットの「ヘヘェ~イ、シャバダバダディ~、イェーイ」には、テレビでふれてから、大反応。好きだったのですよねぇ。

レコードの発売は、昭和50年(1975年3月25日)となっていますが、この替え歌漫談がヒットとなったのは1974年頃、とつぜんのブレイク。

シングルレコード『わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)』は約140万枚もの売り上げだったのだそうですね。ビクターレコード・ヒット賞も受賞。

トレードマークのあごひげとアフロヘアーの松鶴家千とせさん。

このCM映像は、それからだいぶたっての1980年代も後半のものですが、よいですね。。。

松鶴家千とせ:『ゆく年くる年87-88』 CM ひとつは、いい時計



でも、松鶴家千とせさんのことを知ったのは、こどものころだっただけに、どのように、この路線がうまれたのか、ということなど、あまり知らなくて。とにかくジャズ的な雰囲気とかそういうのがお好きな方なんだろうなぁとは解釈していたのですけれど、ずっとそのままで。

このたびは、また「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」がよぎったのを機に、関連のことをいろいろとまなんでみることにしました(まずはとっかかり)。

Wikipediaや動画でのインタビューなどからのすこし。

「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」の由来:(Wikipedia:松鶴家千とせより)
時代劇ネタの他、ジャジーなスキャットに民謡や邦楽を融合させた独特の和風メルヘンの世界を築き、客を置き去りにする芸を専らとしていたが、自分の芸が通じないボヤキで発した「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」の苦し紛れのギャグが受けるようになり、1974年頃「ヘヘェ~イ、シャバダバダディ~、イェーイ。俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さん胸やけ、母さん霜やけ」と哀愁を込めて歌いかける、『夕焼け小焼け』の替え歌漫談で突如ブレイクした。

【USTREAM】 松鶴家千とせ 「タクトの部屋」インタビュー出演(2011年10月20日放送)は約1時間ぐらいとたっぷりなのですけど、いろんなお話きけますね。



松鶴家千とせさん、どんな相手にも「ですます調」で話すというとてもていねいな方なのですね。お弟子さんもたくさんで。そして、いろいろと奥深い方。

世代的な影響や音楽漫才ということもあるのはもちろんですけれど、その後、音楽的な面でもいろいろなその後の層とのフューチャリングもつくづくとなっとくだったりします。

こちらもほんとにかっこいいですね。ビブラストーンを脱退してからのDr.TOMMYこと河野朋久さんプロデュース。
(このアルバム、1995年のもののようですけど、収録ほかもよさそうですね。)

松鶴家千とせ:ボーイ・アンド・ガール(Cross Over Mix)



サザンハリケーンの『目白ロック Song Book~松~』で『千登世橋コズミック・ドライブ』なども。



最近では、2009年にマキシ・シングルで、『サムライ・・・(はるかなる男達) c/w あぁ手賀沼』というものもリリースされてるのですね。



『わかんねェだろうナ(夕やけこやけ』、動画だけでなく、どうしても聴きたくなってしまったので、こちらが収録されてるナンセンス・ソングのオムニバス『ALWAYS外伝~昭和爆笑伝説~』など聴いてみはじめてます:)

おなじみの作品がたくさん。このあたりも折をみてすこしづつ。。

(投稿:日本 2012年4月3日、ハワイ 4月2日)

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引きつづきの映画関連で、先日訪れた東京国立近代美術館 フィルムセンターの常設展「日本映画の歴史」で出会ったものから。

こちらには、日本映画の歴史をたどる数々の貴重なコレクションがあり、名画とよばれる日本映画を代表ずる作品から、いままで知らなかったようなものまでさまざま。

特に興味をもったのが、1920年代、1930年代あたりの日本のアニメーション黎明期作品。正直、日本のアニメがこんな早い時期から発展していたとはまったく知らずなのでした。
(考えてみれば。。ではあるのですけれど)

大藤信郎、山本早苗、村田安司、北山清太郎など、アクティブな先駆者の方たちが何人かいらしたのですね。

なかでも、そのイラストのタッチや動きのかわいさにひかれてしまったのが、大藤信郎氏の作品でした。

東京国立近代美術館 フィルムセンターで目にしたのはこちらの作品。展示室の小さなモニターに、ほかの黎明期作品とともに、常に上映されているようです。

大藤信郎:天狗退治(1934年)
ちょっとBetty Boop にもタッチが似てますね。ほんとにかわいらしいのです。



展示には、もちろん大藤信郎氏についての略歴や作品解説などもあったのですけど、さらに知りたくなって。ほかの作品もないものかと、帰宅後すぐに調べてみたりしてみました。

黒ニャゴ(1929年 千代紙映画社 画:大藤信郎) 歌:平井英子



レコードトーキー方式で上映されていた作品。音声はSPレコードをシンクロさせてかける方法ですね。
初期ということで、歌の内容にそった物語的な内容で。

千代紙映画社という社名にもあるとおり、大藤信郎初期の作風は、千代紙をもちいた切り絵をアニメーションにしたものが特徴。

歌詞のとびはねるような動きも楽しいですね。この当時、すでにこんな楽しいアニメ作品があったなんて☆
平井英子さんのおうたもかわいらしく。
ほんとうに感動してしまい、なんだかとってもうれしくなりました。

村祭(1930年 千代紙映画社 画:大藤信郎) 歌:平井英子



Wikipedia:大藤信郎
「(大藤信郎氏は)東京浅草の蓄音機録音スタジオを経営する家で、8人兄弟の7番目の子として生を享ける。18歳で日本アニメ界の創始者の一人、幸内純一のスミカズ映画社に入って動画を学ぶ。1921年、21歳で自らのスタジオとして自由映画研究所を設立し、初の劇場公開作『馬具田城の盗賊』(1926年)の好評を受けて1927年には千代紙映画社と改名した。こうした初期の短篇アニメーションは劇映画の併映作品として一般に公開され、『鯨』(1927年)や『珍説吉田御殿』(1928年)はソ連やフランスでも上映されている。しかしアメリカのトーキーのカートゥーン作品が輸入されるようになると、大藤の千代紙作品が劇場公開される道が閉ざされたため、セル・アニメーションのカートゥーンにも携わるようになり、一時は政岡憲三とも共同で製作をした。1930年代から終戦までは文部省や海軍省から委託された作品を主に製作し、技法としては影絵映画を志すようになった。宗教団体のスポンサーによって日本の神話や仏教を題材とした作品を作りつつ、色セロファン影絵という独自の技術を磨いて自主製作で『くじら』と『幽霊船』を完成させた。それらは商業的な成功を得ることはなかったが、『くじら』と『幽霊船』は海外の映画祭で高い評価を受けて、当時日本では過去の人となっていた大藤の名を残すこととなった。
大藤の長姉の八重は、信郎が6歳のとき母親が死去して以来、母代わりとなって公私にわたり末弟の信郎を支援し続けた。スタジオの機材一式を買い与え、姪の芳枝とともに助手として、弟子のいない信郎の創作を手伝ったのは八重であった。1961年、長篇作品として企画していた『ガリバー旅行記』と『竹取物語』の完成をみることなく信郎が脳軟化症によって没すると、八重はその全財産を毎日映画コンクールに寄託。その基金を元に1962年より大藤信郎賞が設けられた。またその後大藤の遺品は八重の手で東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された。大藤と八重の墓所は神奈川県小田原市の時宗蓮台寺にある」

海外の映画祭でも賞を受賞するなど。ピカソやコクトーにも絶賛されたとは。でも、たしかに、ですよ。その評価に値すると思います。

千代紙の後も影絵、セロファンなど様々な素材をもちいた手法を使い分け、夢のあるアニメの世界をつくりあげた方なのですね。

「毎日映画コンクール」でも大藤信郎賞という賞があるほどの方なのですね。
この大藤信郎賞は、手塚治虫さん、和田誠さん、川本喜八郎さんなど、なるほどと納得されるような方が受賞。
なんとなくその描く世界は、たしかに、ですね。
Wikipedia:大藤信郎賞(受賞作品リストあり)

さらにいろんな作品をみてみたくなりました。
DVDでの作品集などもでてるのですね。

(投稿:日本 2012年4月1日、ハワイ 3月31日)

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